セミナーレポート
第10回 2010年7月講座
「奈良から見た大阪〜平城京と難波京〜」
聖武に捨てられた大阪、大阪の人は奈良に足を向けて寝られない…プロジェクターに映し出されたショッキングな文字と、斬新な切り口からの解説に、会場にどよめきと笑いが起こる。発言の主は本誌第23号に登場していただいた、日本古代史のエキスパート・千田稔先生。大阪城を眼前にしての大胆不敵な冒頭の言葉だったが、まるで1000年以上前の大阪と奈良を、実際に見てきたかのような講義が進むにつれ、だんだんとその理由が明らかにされていった。
日本書紀をはじめとする文献資料や地理学の成果を手がかりに、奈良と大阪の知られざる関係性が明らかになっていく。千田先生によると、古くから主要な交通路として栄えた瀬戸内海の東端に位置する大阪には、難波津・難波御津など時代ごとに様々な名で呼ばれる港があった。飛鳥〜白鳳〜奈良時代にかけて、都は奈良にあるものの、海外の国と付き合うには当然港が必要で、自然と大阪は栄えた。だから「奈良の都がなければ今日の大阪はあり得ない」というのがその理由だ。
では「聖武に捨てられた大阪」とはどういうことなのだろう? 聖武天皇は724年に平城京にて即位した。けれども「このまま平城京にいては、藤原氏の傀儡になるのでこの場所を離れたい」と、天然痘の流行による藤原氏の勢力低下を見計らい、未だ建設途中であった恭仁京へ遷都を試みる。しかし藤原氏の妨害もあり、恭仁京建設は難航。聖武天皇はとうとう大阪、つまり難波京へと遷都することを決意したのだ。だが、ついに大阪が都になろうという前日、仏教に篤い信仰心を抱く聖武天皇は、「やはり建立途上の大仏の近くにいたい」と心変わりし、結局、紫香楽宮へ行幸してしまう。
歴史に関して「たら・れば」はご法度だが、「ここで聖武が難波京を選んでいれば、今の大阪のありようも大きく変わっていただろう」というのが千田先生の所見。古代の大阪と奈良、港と都、天皇と藤原氏の関係から、奈良に育てられたという視点を持てば、いつもの大阪も違って見えてくるはずだ。
1942年奈良県生まれ。京都大学大学院博士課程中退。追手門学院大学助教授、奈良女子大学教授、国際日本文化研究センター教授を経て、現在は奈良県立図 書情報館館長。平城遷都1300年祭協会理事も務める。専門は、歴史文化論、歴史地理学。飛鳥~白鳳~奈良といった教科書的な歴史区分を「ヤマトの時代」 としてとらえ直した好著『平城京遷都』(中公新書)のほか、『古代の風景へ』(東方出版)、『王権の海』(角川選書)など、著作は多数ある。 |